ルネ・シェレール『ノマドのユートピア』(杉村昌昭訳、松籟社、1998年)1

ユートピアの規定、イマジネーション、イメージとの関連について

「ルイ・マランにならって、「ユートピア」は単なる知性の産物としての「概念の次元に属するものではなく」、「イマジネーション」の次元に属するものである、といっておきたい。この著者〔ルイ・マラン〕とともに、これをもう少し明確にいうなら、ユートピアはイメージというのでもなくて、「イマジネーション」の図式のようなもの、いわば知性と感性の媒介を保証するダイナミックな「図像」である、ということになるだろう」201

「 ルイ・マランは、また、ユートピアは現実を「中和化」する働きをもち、その批判的機能によって、絶対的とされる唯一の歴史的現実にわれわれの判断が吸収されていくのを止める効果を発揮する、とつけくわえている〔シェレールの17ページ参照〕。しかし彼は、われわれが認めること——すなわち、ユートピアは政治的企図ではないとしても、戦略としての機能を保有するものであるという見方〔シェレールの戦争機械としてのユートピア17ページ参照〕——を拒絶してもいる」201

*ルイ・マラン『ユートピア的なもの——空間の遊戯——』、梶野吉郎訳、法政大学出版局、1995年参照

ルネ・シェレール『ノマドのユートピア』(杉村昌昭訳、松籟社、1998年)3

「〔ギイ・オッカンゲムの小説『浮き彫りの愛』に関して〕この能動的なユートピアは単にイメージを現実のなかにはめ込むことで充足しているのではない。そうではなくて、ここでは、ユートピアは現実のまっただなかに入り込み、現実を挑発し、現実の確かさをゆさぶり、現実の関節をはずすのである」144


ユートピアは方向=意味〔sens〕の転換であり、反転、転用である」185

菊竹清訓「海洋都市」(川添登編『メタボリズム1960』所収、美術出版社、1960年、6-39ページ))

「都市の混乱と麻痺が、そして建築の矛盾と停滞が、提案させるのだ」

「1958年、都市住居に焦点をしぼり、翌年1月「搭状都市」としてまとめ、・・・中略・・・同年2月、数年前から検討を加えてきた浮かぶ都市、動く建築の可能性を「海上都市」として提案したのである。この2つの都市デザインへの提案と、その空間の基本的な方向を展開させ、われわれはいま新しい都市「うなばら」を提案しようとするのである。
この都市を、海洋都市として新しい都市秩序をもち、自由に生成発展していく人間社会にもっともよく適応するような人間の都市として提案したい」10



塔状都市について

*現在の都市=水平都市⇔塔状都市+海上都市

「都市のデザインは、明日のものでなければならない。明日への意欲と発想に始まるのでなければならないであろう。
都市のこれまでの諸問題は、明日のために整理され、準備されねばならないが、明日を束縛するものであってはならないであろう」12

「東京という尨大な規模の都市は、病み疲れている。唯マンモス化して、都市としてのコントロールを失っているばかりではない。この都市に住む800万人の人間の順応性に頼って、病んでいる事実を覆い隠し、正当づけようとさえしているのである」12

メタボリズムの規定

「「メタボリズム」とは、来るべき社会の姿を、具体的に提案するグループの名称である。
われわれは、人間社会を、原子から大星雲にいたる宇宙の生成発展する一過程と考えているが、とくにメタボリズム(新陳代謝)という生物学上の用語を用いるのは、デザインや技術を、人間の生命力の外延と考えるからに他ならない。したがってわれわれは、歴史の新陳代謝を、自然に受け入れるのではなく、積極的に促進させようとするものである。


今回は、建築家による都市の提案でまとめられたが、今後は、各分野のデザイナーや美術家、技術者、科学者、また政治家など、多分野からの参加が予定され、すでにその一部は準備を始めている。われわれのグループそのものも、たえまない新陳代謝を続けていくであろう」(川添登編『メタボリズム1960』、美術出版社、1960年、4ページ)


英語
''Metabolisme'' is the name of the group, in which each member proposes future designs of our coming world through his concrete designs and illustrations. We regard human society as a vital process- a continuous development from atom to nebula. The reason why we use such a biological word, the metabolism, is that, we believe, design and technology should be a denotation of human vitality.

We are not going to accept the metabolism as a natural historical process, but we are trying to encourage active metabolic development of our society through our proposals.

This volume mainly consists of the designs for our future cities proposed only by architects. From the next issue, however, the people in other fields such as designers, artists, engineers, scientists, and politicians, will participate in it, and already some of them are preparing for the next one.
In future, more will come to join ''Metabolism'' and some will go; that means a metabolic process will also take place in its membership.(川添登編『メタボリズム1960』、美術出版社、1960年、5ページ)

研究ノート②:思いつきから思いつきへ

●メタボ:未来の体

・万博1970

→万博の建築意匠:メタボリズム

→空気構造

無重力感、浮遊感:パビリオン、蝶、江藤の言葉

→逆説的に現実的な重さ、質量:物質性、物質らしさ??

→崩壊が前提の建築:パビリオンという制度

代謝(メタボリック)、変化、(ベルクソン的)持続が基盤となる時間観念

→崩壊と構築の反復によって世界が刷新していく未来

ドラえもん

メタボリズムの二次元バージョン

→道具、装置によってメタボリズムを具現化

無重力感、浮遊感

メタボリズムと類似した建築構造あるいは装置、道具の意匠

→無時間的世界、反復する世界、変化を拒絶し現状が最前の世界、不動の世界

→設定される未来は、現在の世界の一部。変化しない世界の一部

→非物質性、徹底したimagination

→身体に及ぶメタボリズム:過剰なメタボリズム(物体に制限されない??)

→怪物的な身体:無重力感、浮遊感をもつ身体、手触りを持つ空気構造、現実的に軽い否重力を持たないものを喚起(⇔万博メタボリズム建築)

→日本の1970年代までの想像力による未来の二系統?、二つの時間をもった未来への視座

→日本的資本主義の未来:ジェイムソン

・現代の日本

→現実的なメタボリズム:身体のメタボリズム=メタボの発生

→怪物的身体と医療が国家が規定(健康診断の条項に記入される)

→悪しきもの、排除されるべきもの

→1970年代的未来の否定??

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研究ノート:思いつき

●メタボ:未来の体
・万博1970
→万博の建築意匠:メタボリズム
→空気構造
無重力感、浮遊感
→逆説的に現実的な重さ、質量:物質性、物質らしさ??

ドラえもん
メタボリズムの二次元バージョン
→道具、装置によってメタボリズムを具現化
無重力感、浮遊感
→非物質性、徹底したimagination
→身体に及ぶメタボリズム:過剰なメタボリズム(物体に制限されない??)
→怪物的な身体:無重力感、浮遊感をもつ身体、手触りを持つ空気構造、現実的に軽い否重力を持たないものを喚起(⇔万博メタボリズム建築)

→日本の1970年代までの想像力による未来の二系統?(んーメタボリズムが軸になってしまうが・・・)
→日本的資本主義の未来:ジェイムソン

→現代の日本
→現実的なメタボリズム:身体のメタボリズム=メタボの発生
→怪物的身体と医療が国家が規定(健康診断の条項に記入される)
→悪しきもの、排除されるべきもの
→1970年代的未来の否定??

研究ノート2:万博への否定的な声

江藤淳(文芸批評家、復古的保守派?)の言及
「二月のはじめごろ、古山編集長や中谷さんといっしょに、万博会場の下見に出かけたとき、私はなにか遊牧民族が二つか三つ集まって千里丘陵に移動して来たのではないか、というような印象を受けたものである。とにかく蒙古の包〔パオ〕かテントのお化けのようなものが、やたらとあちこちに建っていたからだ。その大部分の色彩はどぎつく、かたちは醜悪あるいは猥褻で、遊牧民俗は、色盲か性的欲求不満におちいっている〔原文ママ〕のではないかと思われた。聞けばこれは「企業館」という代物で、現代の日本の産業を代表する各企業が、宣伝のために建てたのだそうである。なかには包〔パオ〕のようなのばかりではなく、七重の塔や太閤秀吉の御殿の離れみたいなものもあり、その俗悪ささたるや肌に粟を生ぜしめた」(江藤淳「五色の文字と蝶の翅——万博ぶらりぶらり」、『季刊芸術』第13号、vol. 4、No.2、1970年、15頁)



「しかしこういう醜怪なものばかり出来るのは、なにも企業の側だけの責任だとはいえない。企業の意向を受けて多額の金を消費し、もっともらしい理窟をつけて感受性ゼロの実業家たちをタブラかした才人どもがいるにちがいない。才人、すなわち虚業家、あるいはこれを山師ならざるパヴィリオン師という。多くは前衛と名のつく建築家であり、若干の興行師をまじえる。彼らの’’作品’’のうちもっとも醜、かつもっとも猥なるものは疑いもなくフジ・グループ・パヴィリオンである」(江藤淳「五色の文字と蝶の翅——万博ぶらりぶらり」、『季刊芸術』第13号、vol. 4、No.2、1970年、15頁)



「これは黄と白・・・中略・・・の横縞をもって彩った巨大な芋虫を、ブツリブツリとチョン切ってふくらましたような包〔パオ〕の一種である。横から見てもすでにみにくいが、これを切断面から木立越しに見たとき、私たちは唖然としないわけにはいかない。それはまったく女陰に酷似しているからだ」(江藤淳「五色の文字と蝶の翅——万博ぶらりぶらり」、『季刊芸術』第13号、vol. 4、No.2、1970年、15頁)

フジ・グループ・パヴィリオン