メタボリズムについて(八束はじめ「「メタボリズム連鎖〔ネクサス〕」という近代の超克」、in メタボリズム未来の都市カタログ所収、pp. 10-16より)つづき

「「東京計画1960」以来、丹下は自分の構想する都市を情報ネットワークによって構成される場として構想した。「東京計画1960」の住民は、もはや地域共同体に根差すのではなく、情報のチャンネル(これは菊竹によって使われた概念である)の中を流動的に渡り歩く匿名的な主体である」14



「 1960年代後半に「情報」と並んで特異な意味を帯びていた概念は「環境」である。「情報」といい、「環境」といい、今日では陳腐化して当時持ち得た清新な意味を理解しにくくなっているが、トータルにコントロールされた「場」という意味を持っていた」14


「重要なソースはバックミンスター・フラーのパッケージ化された環境制御単位というアイデアで、これを日本に紹介した美術評論家東野芳明と磯崎は1966年に「色彩から環境へ」と「空間から環境へ」というふたつの展覧会を開催、「エンバイラメントの会」を結成する。これは美術における」ハプニングや音楽におけるチャンス・オペレーションの考えを包括する「場」としての環境を考えるもので、この構想ではハードよりもそこで行われるイベントに重点が置かれており、磯崎は「ソフト・アーキテクチャー」という概念を提唱した」14


「空間から環境へ」展に関する井口壽乃のシンポジウムでのコメント
(参照:http://moriartmuseum.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/1-d8f1.html

「この展覧会は1966年11月11日から16日に銀座の松屋デパートの8階で開催されました。美術、デザイン、建築、写真、音楽の分野から38名が参加し、わずか6日間で35,000人の入場者があったと言われています。
もともと、この展覧会は粟津潔さんたちによるグラフィックデザインの『ペルソナ』という展覧会が企画されていたのですが、グラフィックだけではなくて、美術や音楽、建築がクロスオーバーする展覧会へと発展させたものに変わったと言われています。
展示作品全体に共通しているのは、作品の素材がアルミやプラスチックなどの新しい素材を用いていること、そしてそこに作品が置かれることによって周囲の空間が変容したり、また観客に環境を意識させるものであったり、展示方法であったりすることだと言えます。
多田美波さんの作品に見られるように、観客の姿や周囲の環境が作品に映り込み、作品そのものに観客が積極的に関与しています。この展覧会では、そうした作品が多く展示
されてました。」

1960年代の終わりには万博を意識した展覧会が企画されるようになりますが、そのひとつが1969年4月26日から1カ月間、銀座のソニービルで開催された、「国際サイテック・アート展〈ELECTROMAGICA〉」です。これは先端技術の文化面への活用を強く意識したソニーが銀座に新しく建設した自社ビルを使った国際的なイベントで、山口勝弘さんに企画を依頼し、東レ、日本電子、IBMほか、各企業との協賛で行われたものです。
展覧会はソニービルを立体的ディスプレー装置として、アートを新しい技術と融合させ、視覚と聴覚によって、都市環境を創造する試みでした。したがって、電気、電子機器を用いた作品によってビル全体に、光、運動、音による、いわゆる環境芸術をつくり上げたのです。
こうした60年代末の展覧会には、日本国内の芸術家ばかりでなく、国外作家との交流が盛んになってきます。国際的な現代芸術のひとつの大きな流れのなかで芸術活動を展開していったその記念碑的な出来事として、また1970年の大阪万博に直接的に結びつくイベントとして、1969年2月5日から7日まで代々木体育館で開催された「クロストーク/インターメディア」というものがありました。
・・・中略・・・
音と映像と光のメディアが混然となった21作品が3日間上映され、毎晩3,000人を超える聴衆が会場を占める盛況ぶりだったと言われています。会場の巨大な円形ドームの空間に特別に設置された14チャンネルの音と映像の移動装置によって、観客はディスコティークのような空間で、これまでの芸術鑑賞とは異なる体験をする、当然ながら、今スライドで映していますが、1966年秋の、ニューヨークでEATが開催した「九つの夕べ――演劇とエンジニアリング」を意識しており、EATの「九つの夕べ」をしのぐ内容と規模を目指していたと考えられます。
大阪万博ペプシ館はアメリカのエンジニアリング、先ほど申し上げたEATのビリー・クリューヴァー氏とラウシェンーグが中心となっていたことは、よく知られています。こうした日本とアメリカ、相互の交流を可能にしたのは、日本人メンバーの中谷芙二子さんが重要な役割を果たしていました。
パビリオンの内部にはミラードームによって映像のディストーション効果を演出しているということ、そして中谷さんの「霧の彫刻」が示したように、屋外に新しい環境をつくり出す、つまりギャラリーのような閉じられた空間ではなく、屋外の開かれた空間で環境芸術の整合を見たのです。その意味では「空間から環境へ展」から、このペプシコーラ館に見るような万博へつながるストーリーが描ける。60年代の環境芸術が、1970年の大阪万博で集大成されるというストーリーを描けると思います。



「環境」に関する井口壽乃のシンポジウムでのコメント
(参照:http://moriartmuseum.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/1-d8f1.html

ここで使われている「環境」という言葉は、イコール「都市環境」と言い変えてもいいと思いますが、都市固有の空間を意識したものであって、芸術作品においては観客にドラマのような非日常的な驚き、それまで存在していた空間の見え方が変わるようなものを「環境」という言葉で表現していたと思われます。ですから、作品には観客の参加が求められ、その意味でハプニングへと発展していくものだったと言えるでしょう。」



上記に関するシンポジウムでの浅田彰のコメント
(参照:http://moriartmuseum.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/2-eba1.html

「そもそも、「空間から環境へ展」というときに、「環境」という言葉がどこから来たのか、椹木野衣さんが「浅田孝の『環境』概念からきた」というふうに言ったのが正しいかどうか。それはアカデミックな問題としては重要かもしれないにせよ、本質的には建築・都市計画でも、芸術でも同じようなことを考えていたと見ておけばいいと思うんです
つまり建築・都市計画の文脈でも、日本が満州から南洋まで進出した頃から「環境」というのがキーワードとなり、戦後も南極の昭和基地のプレハブ建築をつくったりした浅田孝らはそれを強く意識していた。と同時に、芸術の文脈でも、フルクサスなどを筆頭にハプニング(今でいうパフォーマンス)が行われるようになり、ハプニングの生起する場をアラン・カプローなどが「ENVIRONMENT」と呼んで話題になった。こうして建築・都市計画において「環境」と芸術の文脈での「環境」がつながって、「空間から環境へ展」という展覧会が成立した。もちろん、「環境」という言葉の起源をめぐる井口さんのアカデミックなお話はそれでいいのですが、ここで話を進める上での了解としては、「環境」概念がどこから出てきたかを問うよりは、今言ったような同時平行性を想定しておけばいいのではないかと思うんです。」