ルネ・シェレール『ノマドのユートピア』(杉村昌昭訳、松籟社、1998年)2

ユートピアというものは未来に照らして活用変化するものではない。それは実現するべき何らかの理想に導かれた予測のなかにあるのではない。そして、ユートピアの思想は「可能か不可能か」といった言葉づかいをするものではないけれども、あえていうなら、ユートピアにおいてはつねに不可能なことの方が念頭におかれているのである。しかし、それは、いつなんどくでもすべてが必要であり、またすべてが現前するということをめぐる不可能性の問題にほかならない」56


「このような空理空論〔=ユートピア思想〕は、それがユートピア戦略のなかに組み込まれ、戦争機械となって、時間の流れに介入するとき、意味をもちはじめるのである。こうした空理空論が、ものごとの流れがかたくなに取り返しのつかない方向に失墜していくことに抗い、その流れを変えることを待望しよう〔*シェレールに従えば生の問題系へ向かう〕。こうした空理空論がそのような流れのなかで起きる出来事に従属するのではなくて、新しい流れをかたちづくることに貢献することを期待しよう。こうした空理空論が本当の出来事を触発し、構築することを願望しよう」57


「彷徨える現実の宿命的な自由落下に対して、ユートピアは解き放たれた自由を対置する。それは予測を座礁させながら偶然を作動させる〔*常に流動的な変化の生の状態。規定的な現実ではなく〕。ユートピアは行方定めぬ運命と手を切って、われわれの情念や欲望と釣り合った「運命」の方向へと——シャルル・フーリエが来るべき近代にむかってそうしたように——向きを定める。ユートピア思想が空理空論だとして、それは浅はかな考え、間違った見方、忘却、愚かさといったものに最終的に打ち勝つだろうと考えることがつねに正しいのは、このような方向性=意味においてである」58