19世紀後半フランスで権威をもった学派

*フランスがアフリカ大陸で影響を確立しつつあった(1850−1900)
産業革命が眼にみえるかたちで進行し、それを支える自然科学と実証主義が高く評価された時代

① パリ人類学派
●ポール・ブロカ
パリ大学医学部の解剖学・病理学の教授
熱烈な共和主義者:保守派やキリスト教会が支配する教育界に新風を送り込む

○「他者」(文化的背景の異なる)に対する視線
→人種差別的な通俗観念に新興科学の衣装をまとあわせたのみ
→膨大な人体解剖を通じて脳(有色人種、西洋人、アジア人、男性・女性、子供、成人、老人)を計測し、そこから人間の分類
⇒ブロカの言及
「人種においても諸個人においても、知的能力の違いは脳の重量ともっとも関係する原因のひとつである。いいかえるなら、ほかの点でおなじであるなら、知性の発達と脳の重量のあいだには顕著な関係があるのである」(Broca, 1861:187-188)

「脳の重量と頭蓋骨の容量についてできるだけ多くの観察を集めたが、さまざまな著者がさまざまな方法であらわしたこれらの資料から、以下の結論が導き出された。脳の重量は、老人より成人、女性より男性、一般人より優れた人間、劣等人種より優等人種において上回っていること。理論的予見はかくして証明されたのである(ibid:304)」

→当時の支配的イデオロギーを再現
⇒「ブロカの独創が発揮されたのは、そうした通俗イデオロギーを、脳の重量の計測という「科学的」作業によって基礎づけたことであった」(竹沢, 2001:78)

○人類学の制度化への尽力
→人類学を冠する講座を自然誌博物館に設立(1855年
→研究機関、雑誌などの創立(1859年パリ人類学協会設立、1866年第一回国際人類学会、1868年高等研究所に人類学研究室設置、1872年『人類学雑誌』刊行、1876年パリ人類学学校設立)
⇒広く社会にも影響を及ぼす
⇒パリ人類学学校の絶大な人気
・パリ人類学学校
→一般市民向けの公開講座の形式
→聴講生の数1877年8384人1884年9019人1889年11697人
→1876年当時の大学生の数、文学部+理学部で531人、さらに法学部医学部を合わせて11000人ほど
→医学、形質人類学、歴史学、考古学、言語学民族学の講義
観相学の影響
⇒議論の斬新さ:人間が頭蓋の容量と頭形によって分類:能力の差異が決定

○文化と文明の多様性に関するブロガの理解(パリ人類学学校での講義内容)
→生物学に還元
→顔、皮膚、毛の形状、特質と知的、社会的優劣を結びつける
⇒非西洋人:劣等(文明を自力では作れない) 西洋人:優等(高等なグループ、文明の構築)






Paul Broca, 1861 : « Sur le volume et la forme du cerveau suivant les individus et suivant les races », Bulletins de la Société d'Anthropologie de Paris, 2, 1861.

竹沢尚一郎, 2001 :『表象の植民地帝国――近代フランスと人文諸科学――』、世界思想社、2001年。